喪家の狗
















 父には生前世話になった人間が、それ程いなかったらしい。
 この度はから始まり申し上げますで終わる決まり文句を、それ程多く聞く事はなかったなと思い
起こして、初めて気付いた。


 制服とは違う黒いスーツを着込んだ士郎は、黒のネクタイを緩めた。
 冬だというのに、酷く汗ばんで不快だ。
 一着位は持っておきなよねなんて、軽い調子で言われて作ったスーツ。
 そんな物買う位だったら、本当はもっと欲しい物はあったのだ。
 切嗣と違って、士郎はずっと家にいる。この広い家に居る。
 だから、もっと上等の炬燵布団とか、長い事座ってても腰が痛くならない座椅子とか、そんな物
を買った方が有意義だと思った。


 買う寸前まで散々渋ったそれを、こんなに早く着る事になるなんて思いもしなかった。
 買っとけば良かった、炬燵布団。


「…爺さん…親父」


 黙り込むと、しんと冷たい沈黙が流れる。
 当たり前だが、返事は無い。
 時計の針はもう九時をとっくに回って、弔問客が途切れて随分経っていた。
 ああそうだ、もう我慢なんてしても仕方が無いじゃないかと、士郎はゆっくりと上着を脱いだ。
 ばさり、と畳に落ちる音が耳に遠い。


 部屋に重苦しい鎮座してる物が視界に入る。
 その忌々しい程の存在感。
 動かない切嗣の体も、一人ぼっちの家も非現実の極みだ。


 涙が出ない。不思議などどこにも無い。
 …まだ、頭が現実に着いてきていないなんて、判りきっている。

 じわり、と頭痛の予感がして、自然「くぅ」と呻き声が漏れた。
 どうせ我慢しても心配する者なんていないと気づくと馬鹿らしくなって、士郎は今度は意志を持
ってぽつりと呟く。
「…痛い」
 痛い。痛い。痛い。
 言っている間に何が痛いのかも明確ではなくなったし、蹲ってしまうと、来るかもしれない客も
どうでもよくなった。


 ただ畳の感触は気持ち良い。
 目前の白い棺桶。
 目にもつるりとした感触。
 指を滑らすと、やはりひんやりとして、気持ち良かった。
 父が死んだ事実はまだ頭に入ってこない。


 いつもいないからって初めからいないのと同じな訳が無い。
 帰ってくるから平気だった。




(もう帰ってこないなんて、嘘だろ)




 胸がきしきしする。















 しばらくうとうとしていて、かたん、と戸の音で目が覚めた。


 確かめると時計は零時を回っていた。
「――――藤ねえか…?」
 まさか弔問客という訳は無いだろう、一番に浮かんだ名を呼んでみるけれど、返事は無かった。
 まさか玄関が開け放しで、猫でも入ったのかと立ち上がる。
 士郎はまさに起き抜けで、だからそこに――人がいるなんて気付きもしなかったのだ。





 拍子に――顔を陰が覆った。
 恐ろしく背の高い男がそこに、立っていた。





「っ!
 思わずひ、と息を飲んだのがおかしかったのか、その黒衣の男は険しく見えるがよくよく見ると
モンゴロイドにしては彫が深い、端正なその顔に、薄く微笑を浮かべた。
 唇が深い深いこえを発した。
「衛宮切嗣」










「――――え?」
 父の、名前。


(爺さんの、知り合い…?)


 そういう当たり前の考えが今此処で当たり前じゃない。
 今此処が当たり前じゃない。
 長い足が横を通り過ぎて畳がざくざくと嫌な音を立てた。


「う、あ」
 長時間の無理な姿勢に、その男を追おうとした足が言う事を聞かず、へなへな落ちる。


 そもそも、なんだこの男。
 靴すら脱がずに家に上がってきたのかよ……!



「これか」
 坦々とした口調が余計異様だ。
 この男は、おかしい、と判る。
 判るから身体が萎縮する。
「……あんた」
 俺の存在なんか無視して、
 男は、ぶつぶつと呟きながら棺桶の小窓に




 触れ、
 そっと開けた。



 その指は愛しい物を撫ぜる様に動いた様に、見えた。






 俺は…未だに、一度も、そうしていない。
 手を伸ばして、その手を止めた。何度も。


 今更、と。
 いや、まだ、と。


 色々考えて、でもどうせ信じられないんだから、今見ること無いじゃないかと目を背けて。
 今に至った。


 それなのに男は何の躊躇いもなく、いとも容易くそうした。
 過去と化した切嗣を硝子越しにじっと見ている。
 少し顰めた眉。
 裏腹に仄かに嬉しそうに、唇が綻んだのが見える。
 柔らかく。
 そして信じられない言葉を耳にした。










「死んだか」








 目の先には、切嗣が在るのに。




 その瞬間冷え切っていた体が全身に熱を持つのが判った。
 切嗣は変わった人間だったから。
 色々な心配をさせられた。
 真っ当な仕事をしている訳ではないから、敵を作る事も多かっただろうと思ってた。
 頭では。
 家を留守にする事が多かった彼が、他の何処でもない自宅の畳の上で死ぬ事が出来たのは僥倖だ
ろう、そんな事を考えて自らを慰めようともした。



 頭では



 そうして薄らいだ突然の不幸への衝撃は他愛も無く噴出し、以来、始めて大きく心臓が動いた。
 ――激情に任せて俺は叫んでいた。



「あ、んた、非常識にも程があるぞ…!」



 拳を畳に殴りつけた。大きな音こそ立たなかったが膝の下が撓む程。
 どれだけ自分が相手に関係ないと思われたたのか、やっとちらりと横目で眺められる。
 その視線が気に入らない。ぎりぎりと歯が鳴る。
 男は屈んでいた背を優美に伸ばして、尊大に顎を反らせた。
 動作は静かだった。





「衛宮士郎」
「……」
「…だな」





 返事はしなかった。
 だって訊ねられている気が少しもしない。


 多分この男は、それを知っているのだ。
 もし違うと言ったなら、不思議そうに笑っただろう。
 これは独り言だ。
 だから答えない。


 あの笑顔を再び見たくは無い。
 見たら怒りで吐くかも知れない。


 早く出て行って欲しい。
 何をするか判らない、俺が。


 それでも男は腕を組んだまま何も感じない。
 何かに笑っている。





 …ごちゃごちゃして頭の中が纏まらず混乱する一方で、
 怒りは消えた訳では無いのに穏便に済ませて今の状況から脱却したい自分がいる。
 それが一番空恐ろしい。





 顔をうつ伏せたままで声のトーンも下がってしまう。


「…わざわざ、父の死に顔を?」
 だったらもう用事は終っただろうと暗喩する。
「ああ…その通りだ」
 く、と口の端を噛み顔を上げる。
 男はまた棺桶に視線をやっていたが、直ぐにこちらを向いた。
 理性的な態度に、見えた。



「まずは非礼を詫びよう」
「…え?」
「非常識な訪問であった事は認めざるを得ない…なんせ、日の高い内から見たい顔では無かったの
でな」



 確かに俺は『非常識にも程がある』と言った。
 …けれど、その行為が男の何を指すのか、判らない筈が無い。





 時間が遅い事も無断で土足で上がりこんだ事も、
 男の吐いた暴言に比べれば何という事では無かったのに。


 改めてひやりと背筋が凍る心地がした。
 それと共に、二人の間に何があったのか、改めて不可解になった。



「っ…ああ、そうですか…!判ってるんだったら帰って頂けませんか。こっちは朝から今まで動き
っぱなしだったんだ。誰だか知らないけれど、激しく迷惑だ」

 強がり雑じりに語彙を強めても、男は少し目を見開いた様だった。
「至極尤もな意見だ」
 皮肉気に笑ってそう言いつつも、立ち去る気配は見られない。
 歯を食いしばり睨みつける。


 ここは俺と、切嗣の領域なのにと。
 文字通り土足で踏みにじるこの男を許せない。
 ふと気付く。


 ああそうだこの男はこの場所には相応しくない。
 何処が相応しいか何が相応しいかそんな事はどうでも良い。


 ただここが正しくない。
 …この男は正しくない。







 視線はぶつかるが、男のそれはこっちの事情など無視していた。
 それが判った。


 人扱いされていない感じが耐えられず、乱暴に立ち上がった。
 有り難い事に足の感覚はすっかり戻っている。
 畳を踏み締めて、男に近付いて。


 顔は見れずに、腕をぎゅうっと掴んだ。
 手の平にある感触は確かだ。









 ああ、幻覚でもなんでもない。
 これは現実だ。






「……お引取り願えますか。あんたが居ると、父が安らげない」






 気がする、と。
 きっとそれは間違っていない。






 男は腕を払い除けずに、じっとしていた。
 だからこっちも次のモーションへの機会を無くした。
 掴んだ指先に少し力を込める位しか出来なかった。





 純然たる無視がそこにある。





 そして、聞いた。



「…………誰が」
 背の高い男の嗄れた呟きを。
 高速呪文の様な速さのそれを
「え」
 妙にクリアに、頭上に聞いた。














「…………安らかな眠りなど、誰が与えてやるものか」
















【to be continue///】