「――」
汗の雫が流れるのを感じて、覚醒した。
どこにいるのか判らなかった。
ただ腿の内側、皮膚が薄い部分を伝っていく不快さに身震いする。
ふと、体のどこかが軋みをあげたと同時に至る部分に違和感を感じた。ギシギシと捻られたような
痛みは未だ生々しかった。空白の時間とその前の確固とした現実は少しも繋ぎ合わない。目にも違和
感があった。なんだろう
酷く泣いた後のような違和感だった。
そっと目を開いてみた。ぴりぴりとした感じと共に、そこには更にあからさまな惨状があった。
裂かれた服は所々ただの布切れと化し、解けた髪は一筋二筋と言わず、小蛇の様に首に絡み張り付
いていた。
身体自体も異常だった。所々に噛み痕、血、乾きかけた――精液。酷いべたつきは吐き気を催す程
のものだった。
現実を見据えようと右手で目を覆う。頭痛と疼痛の中、その身に起きた事を理解するのに時間が掛
かったのは、頭のどこかがそれを拒否したからかもしれない。
そうして暫くして――キィィと、小さな生き物を絞め殺すような音…暗闇に細く光が射した。
「あ…誰かいるの、か?」
若い、感情を抑えた若者の声。とっさにランサーは下腹に力を込めた。
「来、な…っ!」
言った途端咳き込む。喉を酷使した為か強く息を吸うだけで、苦しい。乾いて張り付いているみた
いだ。声を無理に出すのを止めた。密室の埃臭さでまた咳が出た。壁に身体を任せて蹲る。
「ラン、サー…?」
それでも衛宮士郎にはそこに居るのがランサーなのだと知れたようで、唾を飲み話しかけてきた。
「ランサー、なのか」
二度呼ばれて、馬鹿かこいつはとランサーは舌打ちした。敵のサーヴァントと対峙していて何故、
どうしてそんな、どこか安心したかのように息を吐くのか。
近付かれたくは、無かった。
「……出ていけ」
「…………」
長い沈黙。ほんの少しの光が照らす足はどっしり根を生やした様に動く気配が無い。
「…ドアを」
閉めろ、と。途中喉を絡ませながらもそれで無ければ消えろと吐き捨てる。一人でいたかったが、
見られるよりはマシだった。
士郎は不信に思ったようだったが、それに従う。光はまた細く頼りない糸のようにドアから漏れる
程度になった。再び目が慣れると、士郎の陰はやはりぼんやりと立ち尽くしている。何の用だか知ら
ないが済ませて早く出て行けばいい。それだけ考えていたランサーに、緊張が伺える高めの声で士郎
が言う。
「あ、の。言峰に、呼ばれたんだ」
「…言峰の野郎か」
「なあ、どこか悪いんじゃないのか」
胸糞の悪い事をやってくれる。
知っている癖に。知っている癖に。知っている癖に。
真意は定かではないが、辱めには違いなかった。その上、同情など掛けられた日には堪らない。本
来なら直ぐにでも殺してやりたいと思ってもおかしくは無いのに、回復が間に合わないほどの早さで
体力削ぎ落とされ、怒りを奮い起こす精神力も驚くほど衰えていた、ランサーは脱力した。
弱っているのか、この俺が。
「…人のサーヴァントの心配までしてくれる訳か?」
随分余裕だな、とせめての皮肉を言うと単純にムッとした気配を感じる。
「…そういう訳じゃない、ただ…弱った状態で目の前にいられると気になるのは仕方無いだろ」
「はっ、余計なお世話だ…」
言ったと同時に身構える。陰が近付こうとしている。
「寄るな」
「っ…怪我してるんだかなんだか知らないけれど!……こんな所にいちゃ、治る物も治らないんじゃ
ないのか」
「寄るなと…!」
近づいた士郎に手を伸ばされとっさに払うが力が出ない。全くランサーらしさがなかった。
あの飄々とした、小気味良さはどこへ。
そこで今日初めて
士郎の目が、ランサーを正しく捕らえた。
え、と純粋な戸惑いを含む声の後、息を飲んだ気配がした。誰が、とかよりもランサーが誰かのあ
からさまな欲望の対象となった結果としてこんな姿を晒していることに、酷く焦っているような感じ
がした。
己を奮い立たせるようシャツの胸をぎゅ、と掴んで。その手も直ぐに力を無くした。だらんと下が
った手を握りしめるだけして士郎はただ「…何で」と呟いた。ランサーは鼻で笑った。聞きたいのは
俺の方だよ、と。何でと聞かれて何と答えるべきかも解らない。
どういう結論に行き着いたのか、動きを見せたのは士郎が先だった。
「あんたここ、…出た方が良いよ」
此処は何かがおかしい。歪みに嵌まり込んでるみたいな感じがする。
そう言って伸ばされた手に意味などきっと無い。転んだ者に手を差し伸べるのと何も変わりなく、
ただ彼の奉仕精神がそうさせただけだろう。けれど
ランサーを侮辱するには、十分過ぎるほど十分だ。
壁と身体の間に手を差し込み、手応えを握りこむ。熱い手の平に心地よく馴染む冷たさだ。ああ、
愛しいなと思う。己の分身。己の腕程にも自然に動いた。当然だ。そういう物だ。
そしてランサーは腕を差し出した。突くのでは無く、大きく半円を画いた赤い兇器は士郎の首を完
全に捉えた。けれど、勿論突くよりは隙は大きい。
士郎は動かない――
ぎりぎりの所でもう一度握りこんだ。ぴた、と首元に密着するかしないかのゲイボルグ。止まった
と言えども痛みは走ったに違いない。けれど士郎は本当に最後まで、
避けようとしなかった。
なんだコイツ、これでもマスターの端くれか?ランサーは込み上げてくる笑いを止められずに、ひ
び割れた声で笑った。他人の生殺与奪の権利を自分の物にしているという暗い悦び。唇を舐めて濡ら
すとランサーの顔に悪戯じみた笑みが
浮かんで。
「もう一度死にたい、か?」
士郎は押し黙った。
さあ、どう答える?そんな風にランサーは考えていた。はじけたみたいにここから消えるだろうか。
それともまだ差し出した手を引っ込めないで胸糞悪い事を言ってくれるだろうか。
見上げた表情は変わらない。
表情は変わっていない。
ただ、声も無く泣いていた。
目から透明な雫がつとつとと流れ出てる。そんな泣き方だ。
「……気持ち悪ィ奴だな」
あああいらいらする。心底。出て行けよ。そうすれば命は助けてやるって。
そう思って
「…あんた、なんか…」
思って
ぽとりと雫が汚い床を濡らした 気が して
とても真摯な声が 届 いていた。
「…可哀相だ」
「――――」
ひゅう、と肺を抜ける空気が熱い。
腹にもなにか重くて固い物が溜まって来てる。逆流して口からでそう。目の前が真っ赤だ。
ああ、殺そうコイツ。あの時は少しは申し訳ないとか思った様な気もしたけれど。殺そう。なんで
あの時きちんと殺せなかったかな、俺。だって二度手間じゃねえか。勘が狂ったみたいで気分が悪い
な。反応とかどうでも良い。ただこの存在を消してしまいたい。頭の中から。
死んで欲しい。死んで
「アアア――――――――!」
渾身の力を込めて、ランサーは突いた。
「ァアッ!」
「っく、」
けれどなんて事だろう、士郎は避けるというよりはその目の勢いに飲まれて足を滑らせていた。
床に身体を叩き付けて倒れこんだ。ランサーの目の前。
しくじった、と思うより先、獲物は目の前だぞと、本能が告げてくる。
は、と息を一吐きすると、ランサーはゲイボルグを床に突きゆるりと立ち上がった。
中腰のままにじり寄りそして仰向けの腹を跨ぎ、どすりと腰を降ろす。
「ぐっ!」
ごほ、と士郎が盛大に咳き込んだ。
尻骨がみぞうちに入ったのだから呻き声も当然だろうとランサーは笑う。
「ふ、はは…」
ふと…笑うのを止めて見下した。
翳った士郎は濡れた目で、ぼんやりした視線を送っていた。
ああ、馬鹿みたいなツラしてやがる。
完全なる優位な立場がランサーを高揚させていく。
……嬲り殺しなどにはせずに、さっさと逝かせてやろう。
二度のしくじり。そして立ち上がって動いてみて、判った。
眠って眠って、ひたすら眠るだけで回復させた体力は、根こそぎ使い切ってしまっていたようだ。
もう激しい運動は望めない程の消耗を感じてそう思う。
早く、また寝て。
そして再び、取り戻さねば。
気づいてやっぱりランサーは笑う。
俺は何をしてる?力のみ取り戻したってまたああやって根こそぎ奪われるだろうに。
取り戻せるものなんてたかがしれているじゃないか。
否。生きていればどうにでもなる。今までだってそうして来たのだから。
本当に失ってはならないのは命以外の他ならない。だから、諦めてたまるか。
相反する感情はどちらも本心で、そして結局…後者が勝利する。
……だけどあれだな、最悪に憂鬱な事には変わりねぇな。
ランサーは皮肉に唇を歪めながら、前屈みに士郎の首に手を絡ませた。
汗で少し湿って、冷たくて、でも熱い。
どくどくと鼓動が早いのか頚動脈の血の流れが手の平にあからさまだった。
「…俺を殺すのか?」士郎が呟く。
ランサーは少しおかしくなって、もう少しだけもたせてやっても良いかと返答の代りにこう告げる。
「…同じ奴に二度も殺されるなんてついてないな、坊主」
今から殺す相手が言う言葉でも無いなと思ったのが伝わったのか、士郎は全くだと呆れたみたいに
「だったらさっきから、なんで一思いに殺さないんだよ」と物怖じせずに言った。
それは、真理だ。
士郎の顔がすっと引き締まるのが判った。
「殺したくない…からか?」
「…違う」
先ほどこれに抱いた全身を覆うような殺意は消えようが無い。
「じゃあ聞くけど……なんで、俺を殺すんだ?」
再び問われて考える
間も無く気づいた。
だって俺はサーヴァントでお前はマスターだ。俺のマスターの敵で、だからお前は敵だ。
俺は戦うためのサーヴァントだ。だから別のサーヴァントと、マスターと戦う。
だから俺は、この坊主を――――
――違う。
これは、八つ当たりだ。
自分に降り掛かった禍事を全て何かに返してやりたくて――――
目の前に都合の良い、とても都合の良い生き物がいて。
そんな自分が嫌だと、思った瞬間ぞわぞわと背筋に怖気がした。
「ラ……ンサー…?」
じっと首を掴んだまま微動だにしなくなったランサーの、己の首に絡んだ指に
士郎が触れる。
それからその手が、手首を撫でるように上がった。手はやはり汗に濡れて湿っていて。
そして首にあった程の温もりは感じられない。末端まで冷えた指は痛々しく冷たい。
…あんた、苦しそうだから。
そう告げるように手首を、そして腕、肘、二の腕を触れて
頬にかすかに触れた。
同情が痛いと思うより先に、なにか込み上げる物が、あって。
耐えよう、と。
何かを耐えようと歯を食い縛り目を閉じた時
ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイィイ…
不吉な軋みが部屋を包んでいた。
【to be continue///】